アパラチア地域におけるセクシュアルマイノリティー

せっかくの冬休みなので、秋学期に吸収した学びをできる限り言語化できたらと思います。一つ前は移民についての投稿をしましたが、今回はジェンダー学のクラスで学んだことをもとに自分が考えたことを記しておきたいと思います。

 

-アパラチア地域って?

アパラチアと聞くと恐らく誰もがアパラチア山脈を想像すると思います。その通りで、アパラチア地域というのはアパラチア山脈周辺の地域、オハイオ南東部やウェストバージニア、ケンタッキー東部等を含む広大な地域を指します。ヨーロッパ系移民がアメリカに移住した際に、多くの人はアパラチア山脈を越えて住みやすい平野を目指したのですが、あまりにも厳しいその旅路から一定数の移民は山脈超えをあきらめ、山脈のすぐ周辺にコミュニティーを形成したのが現在のアパラチア地域の始まりだとされています。このアパラチア地域はその閉鎖的な地理的特徴から、そこに住む人々は狭い心を持ち、頑固で敬虔だというステレオタイプを植え付けられてきました。さらにはそういったステレオタイプから派生して、無学で無知な人々であるというイメージまで広がっていきます。アパラチア地域の人々を指す言葉、"Hillbully"や"Redneck"は「野蛮で意地悪な白人」という意味合いを含んでいます。アパラチアの人々は歴史的にネガティブなイメージの対象となってきたのです。

 

-偽りのイメージが引き起こす内面化

ネガティブなステレオタイプを植え付けられたアパラチアの若者はそのイメージが真実であると無意識に思い込みます。これによって生じるのが多様な若者の流出です。ここで言う多様な若者の典型がセクシュアルマイノリティーの若者でしょう。彼らはアパラチアの人々の頑固で陰湿かつ敬虔だというステレオタイプを信じ込み、自らのセクシュアリティーをカミングアウトすることを恐れ、LGBTQ+のコミュニティーが多く組織されているニューヨークや他の大都市部へと流出するようになります。結果的にアパラチア地域は同一性、単一性をより強化されることになると考えられます。例えば、セクシュアルマイノリティーの若者が外部流出することで、アパラチア地域で暮らすセクシュアルマイノリティーの絶対数がもちろん減少します。これではLGBTQ+のコミュニティーを組織することがさらに困難となり、アパラチア地域内でのセクシュアルマイノリティーにとっての居心地は悪化していく。そしてさらに外部流出が拡大する。この負の循環は多様性に不寛容であるというステレオタイプをこの地域に内面化させてしまうんです。アパラチア地域はこの多様性の外部流出によって、単一性を強化しているとも言えます。

 

-アパラチア出身のセクシュアルマイノリティーが抱える矛盾

外部流出したセクシュアルマイノリティーの若者は大都市部でLGBTQ+コミュニティーの一員として迎えられ、"居場所"を得たかのように思えます。一方で、居場所を失ったかのような喪失感も同時に感じていることが多い。なぜか。アパラチア出身だからと言って、アパラチアにいて疎外感を感じてきた若者は顕著に多いわけではありません。事実、アパラチアに埋め込まれたステレオタイプはあくまでもステレオタイプであって、アパラチア地域の人々の性質を正しく表現していません。そのため、アパラチア出身であっても、温かい思い出とともに故郷に対する愛を持っている者も多いわけです。LGBTQ+としての居心地を求めて大都市部に移動した若者は同時に愛する故郷を離れなければいけないという葛藤経験をしていることになります。彼らはアパラチアンとしてのアイデンティティと自身のセクシュアリティのアイデンティティのはざまに生きているんです。さらにアパラチア地域の外の人々はアパラチアの人々をステレオタイプを通して差別的に扱います。アパラチアを自らの故郷と感じていても、アパラチアを離れた彼らが新たな地で自らのアパラチアンとしてのアイデンティティを表出することは容易ではありません。

 

-アパラチアと東北の類似性

アパラチアに対するステレオタイプを聞いて、東北出身の私は共感を持たずにはいられませんでした。東北に未だ残るステレオタイプ的なイメージ、伝統に縛られ高齢者しかいない、無学で頑固。そういったステレオタイプ的東北のイメージはセクシュアルマイノリティーの外部流出につながっているのではないかと推測できます。どうせカミングアウトしたところで受け入れてくれるはずがないという思い込みにつながり、セクシュアリティーについて悩む若者は自らのセクシュアリティーを受け入れてくれる居場所を求めて関東圏に流れていく。一方で最近の東北出身の若者は自らの東北人としてのアイデンティティに誇りを持っていたり、地元愛が強い傾向があるような気がしています。正確なデータはわからないですが、実際に私の友人にも地元志向の人が多い。きっと東北のセクシュアルマイノリティーの若者は自らのセクシュアルアイデンティティと東北人としてのアイデンティティの間で葛藤し、両方満たされることのないやり場のなさに苦しんでいるのではないかと思うんです。

 

 

日本の福祉系大学、学部の中でセクシュアリティーについて学べる機会があるところはどれだけあるでしょう。私の中の定義ではソーシャルワーカーの役割の一つは社会の多様性を促進することだと思っています。人間は一人一人が多様な側面を持っています。一人一人が抱える悩みもシンプルなものじゃない。その人のいろんな多面性が交差して人は悩む。多くの日本のソーシャルワーカー養成課程は高齢者、障害、子どもという典型的な福祉の対象だけを勉強して資格取得準備学校のようになってしまっている気がしてなりません。セクシュアリティーやエスニシティといった側面からも人を理解できるようなソーシャルワーカーであるべきかと個人的には思います。「ゲイに会ったら襲われそうで怖い」と福祉を学んでいる同期生が以前発言していたのを思いだしました。そんなことを躊躇なく発言できる日本にもどかしい気持ちでいっぱいです。

 

今回はアパラチアと東北におけるセクシュアルマイノリティーについて、先日まで履修していた授業の内容をもとに書いてみました。

 

Kenta